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  • 執筆者の写真QSK代表

◆社長日記◆ 廣島に原爆が投下された日。

更新日:2023年8月9日


 8月6日は、原爆が投下された日になります。私の親族も多くが犠牲になりました。


 本日8:15に、主人と共に黙祷を捧げております。実戦を含め、特に民間人に対しては、今後 決して使用される事がないよう、心より強く祈念致しました。


 こちらの記事にも掲載しましたが、私の祖母方のルーツは広島になりまして、原爆が投下された際には今の鶴見町に住居があったらしく、ここから曽祖父は廣島銀行に出勤していたようです。祖父は、宇品の暁部隊におり、当日は早番勤務で8:15の時点で既に出勤済みでした。


 ・石見屋町(現在の幟町)…曽祖父の実家

  ↓

 ・比治山町 …独立、結婚

  ↓

 ・鶴見町 …転居


 私の祖父は大阪の生まれになりますが、陸軍船舶司令部に配属後、各地を転戦した後、広島の宇品にありました暁部隊に配属されました。同隊には、江戸家猫八さんや 参謀部の丸山眞男さん(東大法学部の有名な思想家)がおられました。祖父も参謀部だったと聞いていますので、丸山さんとは面識があったかもしれません。


 広島宇品の暁部隊に配属になった際、下宿先になったのが 曽祖父の家だったようで、子供に年頃の女性3名がいまして、その内の一人であった祖母と結婚する運びとなりました。


 原爆投下の日、曽祖父は広島銀行本店に出勤する為、爆心地に近づいていく形になり、祖父は、爆心地より距離のある広島宇品の暁部隊にいつもより早い時間に出勤しています。これが命運を分けました。



広島銀行本店は 爆心地から約250mという距離で、曽祖父は遺体すら見つかっておりません。一瞬の事だったろうと思います。


(※写真は、廣島大学サイトからお借りしました。https://dc.lib.hiroshima-u.ac.jp/nucl/metadata/7224



 祖父は、その日は朝礼の為に早番勤務であったと記録しています。いつも通りの出勤であれば、通勤中の被爆で命を落としていたかもしれません。朝礼中に原爆投下があったようで、その後、宇品の暁部隊は、総力で廣島市内中の方々の救助活動にあたったとあります。祖父もその1人でした。瓦礫の山となった廣島を見て、愕然とし、怒りに震えたと手記にあったように覚えています。


 祖父はその後、戦後復興の中、祖母の親戚のゴム関係(安全靴等)の会社に勤め、後年、ダイキンの取締役になられる暁部隊の上司に呼ばれ、大阪に戻ってくる事になったようです。


 枚方には昭和50年頃にやってきたようですが、昭和56年に父を亡くした私が加わり、102歳で亡くなるまで、生活を共にする事になりました。私の主人は、私と同じ小学校の同級生ですから、祖父とは面識があり、祖父が原爆体験の講話をしていたのをハッキリと覚えていると言っています。


 調べれば調べるほど、とても心の痛くなる出来事です。国際情勢が非常に不安定になっている昨今、G7広島サミットで取り上げられましたように、今一度、原爆のその危うさについてを ご周知頂き、二度とこれが用いられる事がないよう、あらためて 強く祈念致しました次第です。

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